NIWA MAGAZINE

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森偏愛記 vol.1 文/福田真視

1.はじまりは祖父の庭

 

30年前の庭

「なぜ森へ行くのか」最近人によくそう尋ねられる。確かに、仕事であると同時にライフワークである旅においても、いつの頃からか、行き先を森に定めることが多くなった。今回、「森について書いてみませんか」という話を頂き、かの質問に真面目に向き合ってみようと思った。そうしていくうちに、幼い頃のある想い出が鮮明に蘇って来た。

 

私は、幼少期のほとんどを祖父母の家で過ごした。賑やかな街の一角に建つ家だが、祖父が大の動植物好きだったため、広い庭は生命に満ちあふれていた。思い返してみて不思議だったのは、池に泳ぐ鯉よりも、そこに居候するアメンボやタニシ、庭を闊歩する鶏よりも、彼らがついばむミミズや昆虫、実り豊かなバナナやオリーブの木よりも、その木陰で胞子を飛ばす苔やキノコ、美しい花をつける椿やツツジの盆栽よりも、主人の手を煩わせる雑草たち、私が興味惹かれるものはいずれも、庭の侵略者〈日陰の住人〉ばかりだった。そして飽きもせず、毎日朝から晩まで独り遊びに没頭した。夜は夜で、その日に見つけたムシや花を図鑑で調べることに一生懸命だった。幼い私にとって、祖父の庭は立派な森だった。そんな中もっとも夢中になったのが、「石返し」。どういうわけか、物心ついた頃から石が好きでたまらない。おそらく父の影響だろう(彼は鉱物を研究している)。大人になった今、その想いは地学や鉱物への興味に発展している。あの固さ、美しい佇まい、手にした時のひんやり感、すべてが特別。いつの間にか、石を拾い上げては土を払い、ポケットにおさめることが常となった。

 

そんなある日、掌に載せるには少々大きすぎる石が目に留まった。屋根まで届くノッポなオリーブの木に、寄り添うようにして鎮座する石。片手で引き抜こうとしてみたがビクともしない。そこで両手でぐいと押し転がしてみた。「ヒッ!」裏返った石の裏を目の当たりにした私は、小さく悲鳴を上げた。そこには、突如白昼にさらされた無数のムシたちが蠢いていた。その気味の悪さたるや!けれど、おぞましいと目を背けたのも束の間、見下ろす光景の奇妙さに意外なほど魅了されはじめた。蜘蛛の子を散らすような勢いでふたたび闇へと駆ける節足動物。きらきらと反射する粘液をはきながら、のそりのそりと這い惑う環形動物。脈打つ血管のように有機的な姿で、石を覆うカラフルな変形菌。猫の額ほどの石の裏に、私は宇宙を見た。以来、虫眼鏡を片手に、庭中の程よき石を裏返してまわった。全身に鳥肌が立つのを感じながら、筆舌尽くしがたい快楽に浸っていた。

 

赤い実

考えてみれば、気味が悪いという感情は、かなりレアで高等な感覚かもしれない。恐怖、当惑、好奇、探求、おかしさなど、あらゆる感情が混ざり合ったものだから。多分、五感を総動員させても足らない感動を孕んでいる。現に、私は祖父の庭で未知の感動を味わった。そして今日の森狂いに至っている。ちなみに気味が悪いという感情は、畏怖の念へと昇華した。なにしろ森はすごいのだ。樹の幹一つとっても発見の連続。朽ち木などみつけようものなら、宝の山に出くわした感。そもそもあれほどまでに雑然とした空間でありながら、落ち葉一枚、ダニ一匹、なに一つとして無駄がないというのだから感心する。祖父の庭で〈日陰の住人〉扱いされていたものたちが、自然界の主要キャストであったことにもおのずと気づく。好奇心過多の私にとって、これほどあつらえ向きの場所はない。

 

それともう一つ、森は芸術とよく似ている。どちらも創造と想像の自由を与えてくれるし、気づきを授けてくれる。学生時代より、私は世界中のギャラリーや博物館をめぐり歩くようになった。そうしていると、普段、点で存在している自分の興味や思考、状況や環境、人間関係、感情などが、作品を通して線で繋がり、有意義な問いや答えが生まれる瞬間に出くわす。偶然の必然を知ることは、実に不思議で面白い。一見すると森は、人が住む俗世間から切り離されたような場所であるけれど、人が生み出す芸術とよく似た働きをする。いやむしろ、野生を呼び起こし、孤独を強いる環境ゆえ、感性が研ぎ澄まされ、前述のような幸運な瞬間に出会える機会は多いかもしれない。つまり、ギャラリージプシーの私が森を乞うようになったのは、当然の成り行きだったといえる。

 

椿

今や、森は私の日常を侵食しはじめている。例えば、仕事のアポイントが午後にずれたと聞けば、これはしめたと近所の森を散策してから出社する。取材先で空き時間に恵まれれば、近くに森はないかとすぐさま地図を広げる。週末ともなれば公共機関を駆使して(私は免許を持たない)、長い休暇には国境を越えて、一目散に意中の森を目指す。一方で、しばらく森と離れた生活が続くと、発作のような寂しさに襲われ、夢を見る。気に入った森が見つかると、足繁く通い詰め、そこがどんなに素晴らしい場所であるかを友人に説いてまわる。この感覚は、もはや恋に近い。知れば知るほど想いは膨らみ、身を寄せれば心が満たされ、美しい知恵と健やかな刺激を得る。その圧倒的な存在を前に、私はとても素朴な気持ちになる。

 

幸か不幸か、森は世界中にある。よって、私が以前にも増して風来坊になるのは仕方がないこと。「なぜ森へ行くのか」その答えはいたってシンプルだった。「そこに森があるから。森に恋をしてしまったから」それに尽きる。では、祖父の庭からはじまったこの旅は、いったいどこでゴールを迎えるのだろう。それについては次回以降、これまで訪ねた各地の森の記憶を辿りながら、考えてみようと思う。

 

 

※ 写真はすべて祖父の庭で撮ったものです。

■写真一番上 30年前のある春の日。鯉の稚魚を守ろうと、烏や猫と格闘していた祖父を思い出す。

 

■写真二段目 主を亡くした今も、庭は現役。緑の手を持つ祖父の小屋は今も農具と工具でいっぱい。

 

■写真三段目 まもなく椿が満開の頃。落ちた花弁を掃き集め、堆肥を作っていたのは祖母だった。

 

 

福田真視 (フクダマミ) プロフィール
編集・文筆業
転勤族な生い立ちと旅好きな両親の影響で、物心ついた頃からさすらいの日々を送る。大学留学時代、写真家志望の親友の影響で美術の世界にのめり込み、以来、世界の美術の現場を訪ねることが旅のテーマに。帰国後、旅行雑誌の編集部に所属。現在はフリーランス。旺盛な好奇心を活かして、様々なカテゴリの記事を執筆。今もっとも興味があるのは、鉱石と菌、つまりは森。