NIWA MAGAZINE

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益子の入り口

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ピアノの静かな音色がさらりと聴こえてきそうな情景。思いがけず、遭遇した雪。白く降り積もったばかりの森は、とても静かで、温かだった。きゅっきゅっと音をならしながら、まだ、だれも足を踏み入れていない、ふかふかの雪を一人、踏みしめる。コドモに戻ったように、ずっと絶え間なく、雪の森の入り口を歩いていた。

 

ずっと、会いたかった人がいた。でも、最期まで、会うことは叶わなかった。それでも、この雪のどこかで、森のどこかで会うのではないか、という期待だけを胸に抱えていた。きっと、この光のどこかで、会える。そんな希望を抱いて。

 

でも、その人は、私に大切なものをちゃんとギフトとして、残してくれていた。その人のスピリットが静かに眠った場所。そして、その人が大切な「何か」を授けた人たち。大切なギフトを、この手でしっかりと受け止めて、そして、今、私は、ちゃんとこの手元で温めている。とても静かに、大切に。

 

 

2016年1月21日

旅のはじまり

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そこは、森であって、森ではないような。福井・若狭のとある場所にある、水と緑と光の世界。青い森の情景。旅の連れがいう「ここは、日本というより、地球」。そう、まさにそんな言葉がぴったり。穏やかな風と鳥の鳴き声。しばらく、その空気感に自分を浸してみる。

 

とある音色を、森に響かせてみることにした。森に聴いてもらいたかった。一瞬、空気がしんと静まり返り、あちら側のたくさんのものが、耳をそばだてているのが、わかる。緊張が走ったのは、その一瞬だけのことで、音色は、そこにあるすべてと、ただただ、調和していった。音と空気が一体になる。耳をそばだてていたものたちの深い満足のため息が聴こえてくるかのようだった。ふかふかの気持ち。いまがずっと続けばいいという、幸福感。透明な気持ち。いつまでも身を浸していたかった。

 

どこでもなかった。 ここが、

われわれの居場所だった。

空の下。光る水。土の上。

 

長田弘の一編の詩が思い浮かぶ。

 

これから、新しい旅がはじまる。長い長い、かけがえのない旅が。

 

 

2015年12月7日

葉山の夕暮れ

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海街独特の空気感と風と光に包まれるこの土地に、いま、どうしても居たかった。

 

関東での最後の暮らしの場として選んだのが、葉山。短い期間ではあるけれど、海が目の前の高台にぽつんと立つ古い家屋のゲストハウスに滞在している。なんというか、これからめまぐるしく変化するだろうという、その前に、静かに自分と向き合う場所が欲しかった。もちろん、東京から2時間以上もかかるし、不便なことも多いし、いいことばかりではないけれど、それでも、やっぱりこの土地で思い耽ってみたり、そういうことがしたかったのだ。

 

とある日曜日。夕暮れ前の時間に、海岸沿いを30分ぐらい、てくてくと歩いていく。崖と言ってもいいぐらい急勾配の丘の上には、大きな家がポツリポツリと立っている。そのゆったりとした道を抜けると、潮の香りが漂う、小さな漁港へ。もう少し先には、海に突き出した小さな神社がある。そんな道を歩いていたら、故・永井宏さんのエッセイを想い出していた。何もないけれど、ここにしかない、何かがある。特別な何か。葉山という土地がもたらす、独特の空気感とハワイに吹く偏西風のような、ふんわりとした風。

 

帽子作家の友人が催していた、小さくもかわいらしい展示会に訪れる。海を眺めながら、ゆっくり友人と話したり、手作りの美味しいケーキとお茶を飲んでお暇する。すっかり夕暮れどきになっていた。この夕暮れの時間帯こそが、最もこの土地が特別だと感じる瞬間でもある。夕日に照らされた海。心の奥底がじんわりと温かくなって、ゆるんでいく。

 

自分自身に還る。それが、ここで得られるものなのかもしれない。

 

 

2015年3月7日

ふくしまの風

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ゆっくりと歩いて、考える。「ふくしま」。あれから、3年の月日が流れて、ようやくその地に立ってみたいと思った。自分の目、体、心を通して、何が見えてくるのか。何を感じるのか。しっかりと受け止めてみたい。そう思える瞬間が訪れるまでは、足を踏み入れてはいけないような気がしていた。

 

いわきの駅に降り立ち、赤阪友昭さんの写真展に向う。4人のアーティストによる、「ふくしま」を題材にしたそれぞれの表現した形を、福島県内で循環させるという、展示企画。企画されたのは、会津の博物館の方々だった。赤阪さんがカメラのフレームにおさめたのは、「ふくしま」の今の姿。もう人が踏み入ることの出来なくなった森。街の風景。光とやさしさに溢れる写真の数々。人間と自然の中間に位置するような、その眼差しはどこまでも深くて、切なくて、心の奥底に響くものがあった。もう、二度と元のようにはいかない。戻れないところまで、私たちは来てしまった。泣いても、叫んでも、それはもう届くことはないのだ。

 

写真に添えられた、赤阪さんのメッセージ。その中で、印象に残ったのが、南相馬の漁師さんの言葉だった。その土地がしたいようにしてあげること。海が返してほしいというのなら、返すしかない。土地には、土地の役割があるのだから、と書かれていた。相馬の海の景色を捉えた写真は、どこまでも光に溢れて、とても美しかった。

 

写真展の会場をあとにして、私は、古くからある森へと向った。そこには、大杉のある由緒ある神社と6世紀ごろ造られたという古墳がある。かつて、古墳から先は、海だったという説もあり、とても古くからある、土地の守り神のような場所なのだ。古代、いわき(岩城)は、東北への入り口のような大切な場所だったのだろう。いわきに来たからには、行かなくてはならないと、直感で感じた。

 

日曜日でバスも一本も走っていないので、仕方なくタクシーで向う。「本当はここまで歩きたかった」という私に、運転手のやさしいおじいさんは、そんな人はいないとか、それは無理だと大笑いしながら、神社の前で降ろしてくれた。「まあ、帰りも良かったら迎えにきますよ」という言葉を残して。車を降りると、とてもいい匂いがする。水が流れる音。樹々の揺らぐ音。森全体から、いい香りが漂ってくる。さすがに、落雷にあっても、まだそこに立っているという大杉を前にして、緊張はピークに達していたが、樹の前でお辞儀をして、気持ちが少し落ち着いた。誰もいない、参道と階段を一人歩き、神社で御参りをする。古いが、綺麗な神楽殿も残されていて、この神社が古くから、地域としっかりと結びついていることを実感した。

 

神社を出て、少し、道沿いに歩いたところに、田んぼの真ん中に残された古墳が、ぽつりとある。少しぬかるんだ畦道をゆっくりと歩きながら、緩やかな風が吹いてくるのを感じる。私は、涙があふれてくるのを抑えることができなかった。南相馬の漁師さんの言葉を想い出し、美しい海の情景を想い出していた。この古くから土地を守ってきたであろう、その古墳も、神社も、この地に眠る人たちも、すべてが悲しんでいる。「ふくしま」という土地を、穢してしまったということ。こんなにも美しい土地なのに。それは、まるで、自分の体が痛めつけられるような気持ちだった。でも、もう、どうすることもできないという、無念さ。それでも。自分のこととして受け止めたいと思った。もう、これ以上、「ふくしま」を、日本という美しい土地を人間が穢してはいけない。誰一人、穢してほしくない。いま、ここで起きていることを、ちゃんと見ておかなくてはいけないのだ。知らなくてはいけないのだ。もう、「なかったこと」には、決して出来ないのだから。

 

この土地に課せられた「役割」は、どこまでも重く、どこまでも深い。ここで感じること。考えること。これからを生きる私たちにとって、その「役割」を知ることは、とても大切なことなのだ。

 

2014年12月14日

大多喜の食

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千葉県房総半島にある、大多喜町。柔らかな風と光が注ぐ、その地に無性に訪れたくなるときがある。どうしても、あの空気感が必要になるときが、ふいにやってくる。体中の空気を入れ替えたくなる。私にとって、大切なリセットの場所なのだ。大好きなハーブ園、澄み切った川の水、土の匂い。行く度に発見があるというのも、旅の面白さで、つい最近、大多喜が食の宝庫であることを知った。「野菜の懐石を出す、すごくいい店を見つけた」という友人の魅力的なお誘いもあって、いつものおきまりコースを外して、お店に直行する。焼き茄子と自家製田楽味噌、ぶどうと新ショウガのおろし和え。次々と運ばれてくる、見た目にも美しい食を頂きながら、その野菜の味の濃さに驚いた。聞けば、ほとんどが地元の生産者によって、作られたものだという。この地の食に惚れ込んで、わざわざ移住してきた、という料理店のご夫婦。締めに運ばれてきた、有機米の玄米餅米。地元で採れるという大きな落花生と共にセイロで蒸された、その味に惚れ惚れし、生産農家さんを早速教えて頂く。

 

古い神社に隣接した、農家の一角にある販売所。生産農家の女性の方が農作業の合間に営む。採れたての果物や牛乳で作られた、濃密な味のジェラート。お米はもちろん、ジャムや卵など、美味しいものが並んでいる。全部、手作りだ。お米は、合鴨農法で作られた、完全無農薬。1キロからでも分けてくださる。その語り口も、ひとつも押し付けがましいところがなく、水のように澄み切った、気持ちのいい方だった。旬のブルーベリーたっぷりのジャラートを手にして、その場をあとにした。

 

2014年10月7日

花背の風

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数ヶ月前、京都の奥座敷―花背にあるという、美しい寺の存在を知った。その名も、峰定寺。今からおよそ、850年も前に創建されたというその寺は、美しい山寺でありながら、一方で、ただならぬ雰囲気と物々しい圧迫感のある空気感を漂わせている。まさに「情念」の世界だ。決してきれいごとのように、すべてを滑らかに、清々しく、誰もが「正しい」人生を送れるわけではない。平安の頃、鳥羽法王の勅願により創建されたという、この寺には、どうにもならないもどかしさ、無念、悲しみ、諦めといった「陰」の心情が積み重なっているようにも想える。すべての荷物を預け、背丈と同じぐらいの杖を持ち、山の崖に建立された本堂を目指して、400を超える段数の階段を上る。階段を上るときは、出来るだけ無心になるように努めて、心を空っぽにしていく。上に行くほど、その感覚は強くなり、自分がどこから来たのか、なんのために歩いているのかもよく分からなくなってくる。靴を脱いで本堂に上がり、その絶景を目にして、この空間がどうして作られたのか、その意味をようやく理解する。

 

「風を感じる」。目を閉じて、深く呼吸をしていると、谷を吹き抜ける風と自分が一体になったかのような不思議な感覚にとらわれる。こうして、文章を書いている今でも、そのとき感じた風の感触をありありと想い出すことができる。音、匂い、感触。全身の五感を研ぎ澄ましていると、「念」を超えたずっと先にある、大切な「何か」に巡り会える心地がしてくる。それは、とてつもなく大きくて、やさしい心地がするのだけれど、言葉では決して表すことの出来ない「何か」だ。そこは、意識を超えた、無意識の世界。生と死が一体になった「輪廻転生」の世界。そうした世界観を、ひとつのミニマムな空間として美的に「表現」した、鳥羽法王には、とてつもない美意識を感じずにはいられなかった。そして、その表現の究極の目的は、きっと「風を感じる」ことにあるのではないだろうか。

 

 

 

2014年8月10日

若狭

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福井県小浜。そこは、母方のルーツの場であり、私の祖母は、小浜から少し行った先にある、三方五湖という5つの湖が連なる三方で生まれ育った。昔から、水のきれいな場所としても名高く、古代信仰の名残が残る、ちょっと不思議な場所でもある。海のすぐそばということもあり、その湾では、海産物が豊富に採れ、また、その味に虜になる県外の人も多いと聞く。

 

三方、と言えば、私が思い浮かべるのは、働き者のおばあちゃんたち。実に、恐ろしいほど働くのである。そのいい例が、私の祖母で、朝5時に起床したら、真っ白くぱりっと、完璧に洗濯されたひとつない「まえかけ」を装い、一日の仕事を始める。家中の床という床は、前日のお風呂の残り湯を用いて、日々鏡のように磨かれる。以前、友人を祖母の家に招待したときに、言われたのが「あんなに、光ったトイレのタイルは見たことがない」ということ。掃除を終えると、畑仕事。自宅で食べる分だけ育て、それは、美しいぬかみそのお漬けものなどに変わる。味噌、梅干し、ありとあらゆるものをほとんどの手で自分たちで作るため、その忙しさは半端ない。以前、同じように、働き者の祖母の妹に、一日のスケジュールを聞いて、本当にたまげた。「一日でゆっくり座るのは、朝の15分。朝ドラの時間やね。朝ご飯の時間だからね〜」それから夕方の晩ご飯まで、ノンストップで働くらしい。

 

今は、もう、その祖母の姿を目にすることは出来なくなってしまったのだけれど、祖母の最愛の夫、つまり、私の祖父が亡くなったとき、祖母はものすごいショックを受けて、それから3年間の記憶がなかった、と聞く。今思えば、そうした悲しみが癒えたのも、ピカピカに床を磨き上げる「ふき掃除」にあったのかもしれないと思う。床磨きを通して、その心も磨く。信仰深かった祖母が、見出した、ひとつの「道」のようなものだったのかもしれない。いつの間にか、元気を取り戻した祖母は、様々な年代の友人をたくさん作り、小さな喜びと幸せを積み重ねて、晩年を謳歌したように思う。

 

**

 

7月のある一日。久々に電車に揺られながら、三方の風景を眺めて、東小浜の駅で降りた。自転車を借りて、地図を一枚もらう。田んぼのあぜ道を通りながら、胸いっぱい、空気を吸い込む。私は、ぐんぐん自転車を漕ぎながら、目的の神社を目指した。「神宮寺」。奈良東大寺の二月堂に送る「お水送り」をする場所である。この夏、どうしても、この場所に来たかった。自分のルーツの場に行きたかったのだ。自分自身に立ち返りたい、そんな想いがあった。

 

草原の参道を抜けて、中に入ると、質素な茶室と本堂、そして、閼伽井戸がある。本堂の中は薄暗く、よく目をこらさないと、その美しい仏様を見ることはできない。白洲正子の『十一面観音』にも、書かれているが、本に掲載されていた当時は秘仏だったこの像も、現代では実際に拝むことができる。蝋燭だけの暗がりで眺める、この観音像は、本当に美しかった。本堂の奥に見える、鎮守の森。白く佇むその森は、「水の世界」のよう。裏の廊下に静かに座り、しばし、その風景を眺めながら、呼吸をしていると、体の中もきれいになったような心持ちがするから不思議だ。この森とこの場所は、古くから、この地域に住む人々がずっと大切に守り続けた場所。日々、きれいな水が得られること。日々そのありがたさに感謝しながら、水と森を守っている。信仰は特別なことではなく、「暮らしの中にあってこそ」と、知人のカメラマンの方が言っていたのを想い出す。

 

閼伽井戸から、こんこんと湧き出る水を口に含み、全身清々しい気持ちになる。この一帯は、古い神社がいくつも点々と存在するのだが、その手水舎のほとんどが湧き水、つまりご神水。神宮寺の手水舎も、もちろん湧き水で、透明度の高さには驚く。柔らかく、やさしく包み込んでくれるかのような印象の、優しい水。鎮守の森と同じだ、と思う。すっかり、都会で溜め込んでいたストレスからも解放されて、私は「私らしさ」を取り戻す。本当に気持ちのいい時間だった。

 

その数日後、若狭から峠を抜けた場所にある、京都の奥座敷、花背に行くことになるのだけれど、その話はまた後日。

 

 

 

2014年8月7日

植物園

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京都・北山にある植物園。そこは、植物たちが半野生化したような、それぞれが好き勝手に過ごしているかのような、抜け具合がちょうどいい場所。人の手があまりにも入りすぎてしまった庭よりも、ちょっと野放しにされているぐらいが、ちょうどいい。私はカメラのファインダーを通して、植物たちと会話をするように、その思い思いの姿を写していく。やさしい光が入る瞬間、植物が醸し出す空気感が、ふわっと和らぐ。そんな瞬間がたまらなく好きである。透き通ったグリーンの綺麗さや、こぼれ落ちそうなぐらい咲き誇る花々に、心から惚れ惚れとしてしまうのだ。風が通るたび、清々しい香りと花の甘い香りが漂う。きっと雨上がりに訪れると、もっとむっと香りが立ちこめるはず。一日中、猫のように、草むらでごろんとなって過ごせたら、どんなにか気持ちのいいことだろう。いつか、試してみたいものである。

 

2014年5月12日

東京の夜桜。

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桜の美しさというのは、場所によって、その年々の天候によって、全く異なるが、その時々で、自分にとって必要な情景を魅せてくれるのも、また桜の魅力なのかもしれない。私自身は、近所の隅田川沿いに咲く桜を、夜、一人静かにやさしい夜風に吹かれながら見つめるのが好きである。桜と私しかいない、贅沢なときを過ごせるのも、この時期ならではの楽しみ。

 

2014年4月7日

京都と白い月。

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暮れの京都。空気感を感じたくて、歩いてばかりの旅だった。中心地からちょっと離れ、洛北に行くと、空の景色も風も、全然違うことが分かる。森から流れる、澄み切った水。空には白い丸い月がぼんやりと浮かんでいた。きっと、この場所だからこそ、見えてくる情景なのだと思う。月は私になにか言いたげだ。でも、その意味することは、すぐには分からない。きっといつもの通り、ちょっと時間がたったときに、色々と腑に落ちる瞬間がくるのだ。月がもたらす予感。

 

 

とある方に勧められた、蓮華寺の庭。そこは、まるで天国のような美しさを放つ空間で、ときが経つのも忘れてしまうほど、いつまでも眺めていられるのだった。ようやく蓮華寺を後にして、ゆっくりと歩いているうちに、森の入り口と思われる場所にたどり着く。入り口は、一般の人が入ることを禁じられていたので、きっと地元の方々がとても大事に守られているのだと思う。その脇には、細い小径があって、やさしい木漏れ日が降り注ぐ。てくてくと歩いてみる。森の入り口を横目で見ながら。

その小径は、あるお寺に続いていて、ご住職さんに断って入れて頂いた。眺めのよいこちらへどうぞ、とにこやかに勧められるがまま、階段を上がり、空を眺める。心地の良い風が吹く。この日は、春のような温かさで遠く見える山々の景色を目にしながら、ここで見上げる月と夜空はどんなにかきれいなのだろうと想像してやまない。

来た道を戻り、駅に向いながら、私の心は自然とぽかぽかしたような温かさに包まれていた。

 

 

 

2014年1月7日

松江の空

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60年に一度の遷宮。八百万の神様が出雲の地に、一同にお集まりになるという神在月。月を愛でるという展示会のメインテーマに合わせ、この時期に開催することに。

松江に訪れた初日、小春日和のような温かさ。冬が到来したかのような東京の気候に合わせた装いー全身ニットの服に包まれた私を待っていたのは、すこぶる暑いぐらいの日差しとやわらかな風だった。特急八雲に揺られながら、美しい紅葉の山々を眺めていた。

松江の上空は、雲がうごめいている。一度として、同じ空はない。私が好きなのは、特に朝の情景である。澄みきった空気に溢れんばかりの光。雲の隙間に入り込む光の情景は、いつまで見ていても飽きないものだ。

イベントの日が近づくにつれて天気は悪化。聴いたことのないような、ひゅうひゅうという風の音。さすが出雲、と友人たちとささやき合いながら、なんとかイベントを無事に終えた。どんなに雨が降ろうとも、夜には煌煌と光る半月が浮かぶ。

私自身が東京に戻ると決めていたのは11月12日。神様をお迎えするという伝統的な行事がはじまるという日であった。夕方、空には、これまで見たことのない7原色の大きな虹が突然現れた。全身、鳥肌が立つぐらいの感動。その場にいた全員は、一瞬、声を出すのも忘れて、唖然とした表情をしていた。オーナー高橋さんの「ギャラリーの上に上がってください」の一言で、急いで螺旋階段を上がる。そこでは、さらなるサプライズが待っていたのだ。龍神の雲が、ギャラリー正面に佇む甘南備信仰(山自体がご神体として古代から崇められている)の山ー茶臼山の上空をゆっくりと移動していた。やがて、その長くて巨大な雲が消えた瞬間、山の真上には真っ白い半月が浮かんでいた。一瞬の出来事だった。

晴れていたのは、その一瞬で、次の瞬間には、また土砂降りの天気に戻っていた。まるで、夢の中にいたようだ、と皆で言い合い、私は、興奮冷めあらぬまま、松江を後にした。帰りは寝台特急で東京に朝着くことになっていた。ずっと睡眠不足が続いていたので、すぐに寝てしまおうと思って、電気を消して、早々とごろりと横になる。と、夜空を見てみると、満点の星と、虹のような光の輪に包まれた月。ハワイでは、「ムーンレインボー」と言われる月だった。それは、めったに目にすることができない、幻の月とも言われているのだ。そんな情景を前にして、眠れるわけがない。

こんなこと、多分この先も、ずっと私は忘れることはないだろう。

 

2013年11月20日

京都と闇

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月を眺めに行った京都。月は確かに美しかった。神社や寺から眺める月、裏の路地から眺める月。何度も何度も、歩いては振り向いて、を繰り返していた。夜空がこれだけきれいに、そして、情緒のある景色をみることのできる街は、そうはない。その秘密は、きっと、「闇」にあるのだ。

 

宿は東山の一角にある、こじんまりとした程良い場所。女将さんは、はんなりというよりも、きっと座ることもほとんどないだろうという、ちゃきちゃきした人だった。宿をとるとき、門限があるなんて知らなかったのだが、開口一番言われたのが、「22時には戻るように」ということ。東京であれば、まだ仕事をしている時刻かもしれないし、電車の中だって人で溢れている時間だ。

「この辺はね、21時になったら、真っ暗だから。」という言葉を聞いて、ふうんと思っていたのだが、20時を境に景色が変わった。「闇」が強いのだ。目に見える世界と見えない世界。夜には夜の、世界がある。そして、その見えない「何か」との距離をきちんと取る、大人のルール。「闇」に引き込まれ過ぎてはいけないのだ。

私は、女将さんのいうことに心から納得して、京都のルールを守って早寝をした。

2013年10月8日

奄美 曽我さゆり

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鬱蒼とした茂みを抜けると、そこは誰もいない、貸切ビーチ。

必要な分だけ、とって食べた海の恵みの美味しさは格別で、海に入るたびに、

「おじゃまします。」

「いつもありがとうございます。」

と感謝のことばが出る。

 

〈足るを知る〉

 

旅に出て、自然の中に入り、その土地の文化や知恵、代々受け継がれる仕事に出会うと、いつも響いてくることば。

 

 

たどり着いた秘密のビーチで無人島気分を味合わせてくれた、カヤックガイドのごんちゃんツアー。

落ちてた流木で作った特設CAFE OPEN。

人はいくつになっても、

挑戦することで、自分の可能性の幅に気付くことが出来る。

仕事や、遊びは手段に過ぎなくて、

その奥にある、自分が人生で大切にしたいものが重要なんだと思う。

いつでも、誰でも、

喜ばせ、楽しませてくれる、

魔法を持っている素敵なガイドのごんちゃんの笑顔で、

それを確信した。

 

 

島の南端に位置するこの場所へ移り住んだご夫婦の住まいは、

2人の力で建てた

光や風、鳥のさえずり、

木のぬくもりを感じるられる、

それはそれは素敵なお家。

 

時間がかかること、

時間をかけること。

簡単ではないこと、

簡単にしないこと。

 

そして、手のぬくもりとは、

シンプルなほど、贅沢な島暮らしだと知りました。

 

とても豊かで、幸せな気分になり、

いつか目指したい、生き方そのもの。

 

2013年8月3日

South Korea Seoul

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ソウルへ。

毎年、心地の良い風が吹く6月に訪れる、大切な場所。

丘の上は、緑が溢れ、コバルトブルーの尾を持つ鳥が

気持よさそうに飛んでいる。

古くからある伝統茶屋や李朝時代の建物や家具を集めた博物館、

元料亭をお寺として解放した空間。

丘の上は、歩いているだけで気持がよくて

ずっと、風の香りを嗅いでいた。

いるだけで、幸せな気持ちになる場所。

それが、私にとってのソウル。

 

2013年7月7日